目の前の対象に「感じる」だけでなく「考えて」いく習慣を
プロ棋士の藤井聡太氏が21歳の若さで前人未到の全8冠独占という偉業達成は社会現象とまでなりました。
将棋に勝つための努力をずっと続けていることはもちろん素晴らしいことは当然です。
しかし、もっと素晴らしいと思うのは、彼がインタビューに答えているいくつかのフレーズにありました。
「絶対的」
彼がかつて中学3年生時に連勝記録を出した時、彼は「実力に見合っていません。運が良かったなと思うところがたくさんあります。むしろこのあたりで『平均への回帰』が起こると思います。今の結果は偏っていると思っています。」
そして、平均への回帰~プロと対戦~買ったり負けたりするのが当たり前の実力と自分を冷静に分析し、だからこそ、「相対的にというより絶対的に強くなりたい」と思っていますと答えました。
「相対的に強い」というのは人と比較し、どちらが強くどちらが弱いかということで、相手によってその強さは左右される。
そうではなく、彼は「絶対的に」と語りました。
そのために努力すると。
対戦相手がいないと成り立たない世界でありながら、人との比較ではなく「絶対的に」と言えるのは素晴らしいことです。
受験も相対比較で合格が決まりますが、偏差値、競争倍率などに左右されず、「絶対的な学力」を目指す。
それが「高校受験を最終目標にしない」、「(その先に大学受験がある)高校受験を使って」という中学生の本来あるべき勉強像なのではないでしょうか。
「考える」とは
そもそも中学生で、「平均への回帰」とか「相対的というより絶対的に」という言葉がスラスラ出てきますか?
日々の生活の中で、「眠い」「うざい」「疲れる」「ムカつく」「おもしろい」「うまい」等々、ひょっとして「感じる」ことのみで目の前の対象が通過しているのではないですか?
一度、目の前に対象物をしっかり置いて、そのことについて「考える」ということを続けてみましょう。
例えば、中学生の時の藤井氏にはこんな話もあります。
先生に、「宿題だからといって既にすっかり理解できているものを、またやることに意味があるのか」と質問したそうです。
おそらく、生意気に言っているのではなく、「宿題とは自分にとって何なのか」をちゃんと考えるからだろうと推測できます。
提出することにのみ、意識を奪われがちな子には、耳が痛い話ではないでしょうか。