自覚を持てばすべてがチャンス
近代における科学の発達はめざましく、日常のいろいろなことは「スイッチ1つ」でことが済んでしまいます。
このことは、日常生活の効率を良くし、ありがたいことですが、一方、「考える」という訓練をするチャンスをことごとく奪われていることになります。
たとえば今、ごはんはスイッチ1つで炊きあがりますが、昔はそういうわけにはいきません。
どうすればおいしいごはんが炊けるか、水加減・火加減も工夫しました。
また、薪を燃やすにはどうしたら一番燃えるのか観察し、考えたのです。
このように、昔の人は日常のいろいろな場面で、「考え」、「自分なりに工夫」するというDrillが自然にできていたのです。
それは大人だけの話でなく、基本的日常生活に多くの時間を裂かねばならない昔は、子どもたちも当然のようにその負担を負わされていました。
つまり、考える機会をたくさん与えられていたと言う見方ができます。
たとえば、携帯電話の普及。
今や高校生だけでなく、中学生あるいは小学生でさえ持っている人が多いでしょう。
とても便利です。
その中のメールは、対面で「相手の表情を見ながら言葉を選ぶ」ということがなくなります。
そして絵文字やLINEになるとスタンプまで「言葉で表す」ということさえしなくてよくなっています。
つまり子どもたちの「自分の言葉で何かを表すDrill」が大きく損なわれている状況です。
子どもたちはそのような機会が少ない、つまり「考え、工夫する」Drill不足なんだと自覚しないといけません。
せめて勉強する時はしっかり「考え、工夫」していかなければなりません。
例えばお子さんが“覚えもの”をどうしたら自分にあったやり方があるのか自分で考え、工夫したことがありますか?
苦手分野だと認識していながら、人から与えられたものだけしかやっていないのでは?
また、せっかく宿題というチャンスをもらいながら、「考え、力にしよう」とはせず、「作業のようにこなしている」「提出することが目的」といった具合になっていませんか?
どんな対象に対しても「考え、工夫する」ということを自分なりに積み上げていくと「自分のスタイル」というものが確立されます。
勉強のスタイルをもたず、テスト前にばぁ~っとやって点だけ取る(あるいは点さえ取れない)といったことを続けていては、たとえ高校受験はしのげたとしても、高校生になったとたんに困ったことになるのです。