具体的に考える
算数は抽象的思考が必要なこともありますが、それは具体があってこその抽象です。
苦手な子は、具体的な経験・思考が少ないにも関わらず、頭の中で一生懸命考えます。
もっと具体的に考える場を多くした方が良いと思います。
例えば、「1~10までの数字は何個ですか?」と聞くと全員が「10個」と答えられます。
今まで何度も数えたことがあるものなので、即答です。
しかし、「10~20までの数字は何個?」と聞くと、「10個」と答える子も多いです。
理由を聞くと、「20-10=10だから」と答えます。
なぜ11個になるのか。
子どもに聞かれて、その説明ができますか?
とても大切なことです。
余力で受験を乗りきる
受験勉強を苦しみながらようやく合格を掴んでも、その先の高1の勉強量は、中3の時の3倍以上。
余力なしでやってきた人にとっては、その大変さにプツンと糸が切れてしまうこともある。
何のために頑張ってきたのか。
ピークは中3だった、なんてことのないように、余力を持って勉強する。
例えば、中3内容は既に学習済みで、英数国などは高校内容に入っているとか。
繰り返し復習するにも時間が足りない高校生にとっては、中学生の間にいくらか勉強済であれば、随分楽なのだが・・・。
今日の中3の授業で三角比が終了。
数学ⅠAで残るは「整数の性質」のみ。
英語は英検2級合格。
英単語暗記や文法もある程度勉強してある状態で高校へ進学すれば、勉強で行き詰まるわけがない。
教育の問題について
日本の教育は個性や才能を重要視せず、「真面目な人を生み出すこと」「落ちこぼれを出さないこと」を最も重視した教育を長年してきています。
これまでの製造業を主体にした国家運営であれば、言われたことをマニュアル通り遂行する人こそ重要で、それは功をなしてきましたが、もはやそういう人材では国家を支えることはできません。
ある程度大きな事業まで拡げていけている人は、才能や運はもちろんですが、どこか変わっていますし、自分をしっかりと持っている人です。
つまり、日本の教育に染まらなかった人です。
「今までそうだったから正しい」と思い、何も疑問を持たないのは怖くないですか?
その「正しい」っていつの時代の話ですか?
もしかして、昭和あるいは平成の、自分が学生時代の話ですか?
「自分の考えを相手に伝える」ことができるように、教育も随分変わってきているようです。
「何のためにするのか」「それは正しいと言えるのか」など、思考する習慣があれば色々気付くこともあると思います。
ある大手塾が超難関校受験選抜クラスの夏期講習会を実施したそうです。
県外から成績優秀者が集まり、ホテルに宿泊しながら毎日コンビニ弁当だったそうです。
ホテルではコロナ感染防止のために友人との交流禁止・外出禁止。
弁当も默食で1人で食べるように言われているようです。
この話を聞いた時に思わず笑ってしまいました。
「黙食で1人で食べる」
へ?
「黙食」も「1人で」食べることも感染防止の観点からそうするのはわかります。
でも、1人で食べてるのに黙食をする意味があるのですか?(おそらく部屋に一人ですよね)
このルールに優秀な生徒たちは全員従ったのでしょうか?
保護者はツッコミを入れなかったのでしょうね。
既に実施されたわけですから。
その教室の後ろには手洗い場がありました。
チャイムがなり、生徒たちは教室に入り、席に着きました。
先生が教室に入ってくるなり、生徒たちに言いました。
「水道の蛇口から水が出しっぱなしになっているじゃないか!誰も気が付かなかったの?」
クラスの生徒はみんな「気が付いていた」と答えました。
蛇口から勢いよく水が出る音が教室中に響きます。
「じゃあ、なぜ誰も止めなかったの?」
ある生徒が答えました。
「気が付いていたけれど、チャイムが鳴ったら席につかないといけないから。」
席を立って水を止めに行ったところを先生に見られたとしても、(席を立った理由を言えれば)注意されることはないでしょう(多分。昔はそれでも怒られましたよね・・・)。
「ルールだから従わなくてはいけない」のでしょうが、その意味や目的等も考えられるようになってほしいなと思います。