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探究学習が機能しない本当の理由――“教えない授業”が学力を奪う

日本の教室で小学生の男女が円になって話し合い、教師が穏やかに見守る様子のイラスト。黒板には文字がなく、明るい日差しが差し込む、やわらかな色調のリアルアニメ風。探究学習の雰囲気を表している。

「探究学習やグループワークが学力低下を招いている」という記事が話題になっています。
確かに、知識を教えないまま“考えさせる”授業では、子どもたちは伸びません。
しかしそれは、探究学習そのものが悪いのではなく、探究の前提となる「基礎」と「設計」が欠けているからです。
今回は、探究学習の誤解を解きながら、「考える力」を本当に育てるための条件を考えていきます。


目次

“探究学習が学力を下げる”という誤解

「最近の子どもは基礎ができていない」「話し合いばかりで身にならない」――。
こうした声が出るのは、探究学習が形だけの活動になっている現状があるからです。

本来、探究学習は“知識を活用して考える力を育てる学び”。
つまり、「知っていることを使って、新しい問いを見つける」ことが目的です。
しかし、基礎知識が定着しないまま探究を始めてしまうと、
「自由に考える」はずが「何を考えたらいいかわからない」になってしまいます。

探究の前には、必ず知識という“土台”が必要です。
教えずに考えさせる探究は、空中に家を建てるようなもの。
基礎のないところに応用は成立しません。


教えない探究は“空回り”する

たとえば「電気の使い方を考えよう」という授業。
電気の仕組みや安全な使い方、発電方法などの知識があってこそ、
子どもたちは意見を出し合い、新しいアイデアを考えられます。

けれど、知識ゼロのまま「考えてごらん」と言われても、
子どもは何を手がかりに考えればいいのかわからない。
結局、感想の共有で終わり、「探究をした気になる」だけで終わってしまいます。

これは、学びのプロセスが逆転しているために起こる現象です。
本来は、「教える→理解する→考える→表現する」という順序が正しい。
それを「考える→教わる→理解する」の順にしてしまえば、当然混乱が生じます。

探究学習が本当に機能するのは、知識を理解したうえで自分の言葉で再構成できる段階です。
そこに到達するまでは、丁寧なインプットが欠かせません。


学校現場が抱える構造的な課題

探究学習が難しい背景には、制度と現場のギャップがあります。
「考える力を育てる」ことが重視される一方で、
実際の現場では、先生一人が教材準備から評価設計までを担うことが多く、
授業の質を安定させるのが難しいのです。

結果として、

  • 教師ごとに授業の完成度が大きく異なる
  • 探究が“話し合いの時間”で終わってしまう
  • 教材や発問は各先生の手元に蓄積されているものの、共有されず、他の先生が活用できない

という状況が生まれています。

多くの先生方は、日々の授業を工夫しながら改良を重ねています。
前年の教材や板書、子どもの反応を残し、それをもとに翌年の授業を改善している。
つまり、「ゼロから作り直している」のではなく、個々の中で進化させているのです。

しかし、その経験やノウハウが学校全体で共有されにくい。
同じ学年・同じ単元でも、クラスによって発問の仕方や活動の深さが異なり、
結果として学びの到達点に差が出てしまうのです。

つまり、教材や発問が“個人の財産”のまま止まっており、組織の知になっていない
これは先生方の努力不足ではなく、
努力を学校全体の力に変える「仕組み」が整っていないことが原因です。

探究学習を機能させるには、教材・設計・改善のサイクルをチームで回す仕組みが欠かせません。
先生同士が授業を見せ合い、教材を共有し、意見を出し合う。
それによって、個々の経験が積み上がり、学校全体の学びの質が上がっていくのです。


経験を「仕組み」として残すという発想

探究学習を本来の形で機能させるためには、
個々の教師の力量に頼らず、経験を学校全体の知に変える仕組みが必要です。
どれだけ熱心な先生がいても、その経験が共有されなければ、
翌年また同じ失敗を繰り返すことになります。

そこで重要なのが、「授業を設計し、記録し、引き継ぐ」という発想です。


学校の中に“共有の設計書”を残す

一つの単元をチームで設計し、
「どの場面で子どもが考えたか」「どの発問が響いたか」「時間が足りなかった理由」などを
授業設計書としてまとめておく。
この設計書は、単なる指導案ではなく、授業の生きた記録です。

新任の先生は、まず先輩が残した設計書通りに授業を行う。
最初は“型をまねる”ところから始めても構いません。
何度か繰り返すうちに、「この質問の方が子どもの思考が深まるかもしれない」など、
自分なりの工夫や改善点が見えてきます。

それを記録に追加して次の年度に渡す。
こうして、授業が毎年少しずつ進化していくのです。

授業は“その場限りの出来事”ではなく、“育てていく文化”に変わります。
先生が異動しても、学校の教育が途切れない。
それが「授業の継承」です。


学校単位の限界を越えて

しかし、現実には学校ごとの取り組みには限界があります。
多くの先生が丁寧に記録を残していても、それは校内に留まってしまい、
他校の先生には届かない。

結果として、

  • 同じ単元でも地域によって授業の深まり方に差がある
  • 優れた実践が“個人の努力”で終わる
  • 新任教師はまた一から試行錯誤を繰り返す

という構造が続いてしまいます。

つまり、先生の努力は確実に存在するのに、
社会全体の教育資産として生かされていないのです。


授業の“オープンデータ化”という未来

これを変えるには、授業を共有財産として扱う発想が必要です。
たとえば、全国の先生が授業設計書や発問例、教材データを投稿・閲覧できる
オンラインプラットフォームを整備する。

イメージとしては、

  • 学年 × 教科 × 単元ごとの授業データベース
  • 「発問」「活動」「振り返り」「児童の反応」を統一フォーマットで登録
  • 他の先生が検索・ダウンロード・改訂提案できる

という形です。

先生が作った授業が、全国の他の先生の参考になり、
さらに改良されて再投稿される――。
授業が全国の教師の手で進化し続ける。
そんな「教育のオープンソース化」が実現すれば、
探究学習の質は一気に高まるはずです。


教育委員会・文科省が担うべき役割

こうした仕組みを学校の努力だけで支えるのは難しい。
だからこそ、教育委員会や文部科学省が
「授業ナレッジ共有基盤」を公式に整備することが求められます。

たとえば、

  • 安全にデータを共有できる環境(個人情報の自動マスキング)
  • 全国共通フォーマットの設計書テンプレート
  • 教員研修・評価と連動したアップデート制度

など、安心して共有・活用できる仕組みを作ることが、国の役割です。

特に地方の学校では、専門教員が少なく孤立しがちです。
全国ネットで授業情報を共有できれば、
地方の若手教師が他地域の実践に触れて学び、
自分の授業に生かすことができます。

それは、教員格差の是正にもつながります。


“つながる教師”が教育を変える

授業を共有し合う文化が生まれれば、教師同士が自然につながり始めます。
たとえば、同じ単元を教える全国の先生が
オンライン上でコメントや改良案をやり取りする。

「この発問で子どもが動いた」
「うちの学校ではこの順番がよかった」
といった声が日々交わされるだけでも、教育は確実に変わっていきます。

“つながる教師”が増えるほど、授業は進化する。
個人の努力が全国の学びの質を押し上げ、
探究学習が「理念」から「文化」へと変わっていくのです。


このように、教師一人の経験を「学校の財産」に、
そして学校の実践を「社会の財産」にしていく。
その循環を支える仕組みが整えば、
探究学習はようやく本来の力――子どもが自ら考え、問いを生み出す力――を発揮できるでしょう。


教師の「教育哲学」を育てる土壌をつくる

教育の本質は、マニュアルでは語れません。
最終的には、教師一人ひとりが「自分はこう教えたい」という信念(教育哲学)を持つことが欠かせません。
しかし、その哲学は突然生まれるものではなく、
日々の授業の積み重ね、そして他者との関わりの中で形づくられていきます。


経験を通してしか育たない「哲学」

優れた教師には、共通して一本の軸があります。
それは、「子どもにこう育ってほしい」という強い願い。
そしてその願いを、どんな授業の場面でも貫く姿勢です。

しかし、そのような教育哲学は、経験を通してしか育たない
失敗し、悩み、子どもの反応に向き合う中で、
「自分は何を信じて教えているのか」を自問する瞬間が何度も訪れます。

授業を重ねるうちに、教師は自分なりの指導観・学習観を築いていきます。
それが、やがて「教育哲学」と呼べるほどの深みを帯びていくのです。


哲学を個人で終わらせない

とはいえ、教師の教育哲学が「個人の中」に留まってしまっては、
それは一代限りのものになってしまいます。

もし、先生が異動すれば、その学校に残るのは記録ではなく“空気”だけ。
それでは、せっかく培った哲学も次の世代に受け継がれません。

だからこそ必要なのは、教育哲学を共有する文化です。

授業の設計書や実践記録を共有し合いながら、
「なぜこの発問にしたのか」「どんな意図で時間配分を変えたのか」を語り合う。
そうした対話を通じて、教師同士の中に“共通の哲学”が育ちます。

つまり、哲学とは一人で抱く理想ではなく、仲間と磨き合う価値観なのです。


「共有」と「哲学」は対立しない

一部には、「共有化すると個性が失われる」と考える人もいます。
しかし実際には、共有によってこそ哲学は明確になります。

共通の設計書や発問例があることで、
教師は「自分はこの流れにどんな意味を見出すか」を意識せざるを得なくなる。
その“自覚のプロセス”こそが、教育哲学の核心です。

共有された型があるからこそ、
「なぜこの部分を変えたいのか」「何を子どもに感じてほしいのか」が明確になる。
つまり、型を通して、教師の哲学が磨かれるのです。


学級通信ににじむ「哲学」

教育哲学は、言葉で教えるものではありません。
授業中の声かけ、子どもへのまなざし、
そして日々の学級通信など、あらゆる場面ににじみ出るものです。

優れた先生の学級通信には、必ず“教育観”が宿っています。
「努力は結果よりも過程に価値がある」
「一人で考える時間を大切にしてほしい」
そんな短い一文の中にも、その先生が信じる教育の姿勢が伝わってきます。

それこそが、経験と実践から生まれた哲学の証です。
そして、その通信を読んだ子どもや保護者は、
先生の思いに触れることで“学びの意味”を感じ取るのです。


教師を育てるのは教師自身の文化

教育の質を決めるのは、カリキュラムでも制度でもなく、教師文化です。
教師同士がつながり、学び合い、互いの哲学を語り合う。
そうした文化が根づく学校は、授業も安定し、探究学習も自然に機能します。

前章で述べたように、授業の設計書を全国で共有できる仕組みが整えば、
その文化は一つの学校を越えて、社会全体の教育文化へと広がっていきます。

教師が孤立せず、他の教師の工夫や信念に触れながら育っていく。
そんな環境が整えば、教育哲学はもはや個人の中に閉じたものではなく、
“日本の教育全体が持つ共通の哲学”へと育っていくでしょう。


哲学を語り合う文化へ

教師の教育哲学は、経験と共有の両輪で育ちます。
教室という小さな場で積み上げた実践が、
共有によって他の教師に伝わり、
やがてそれがまた新しい実践を生み出す。

その循環こそが、探究学習を支える本当の力です。

哲学は言葉ではなく、生き方で伝わります。
そして、その生き方をつなぐ仕組みを整えることこそ、
未来の教育を支える最も確かな探究ではないでしょうか。


探究学習を“制度”から“文化”へ

探究学習は、理念としてはすばらしい取り組みです。
子どもが自分の頭で考え、問いを立て、仲間と意見を交わしながら学ぶ。
この方向性は、まさにこれからの時代に必要な学び方です。

しかし、その理念が「制度」として導入されただけでは、十分に機能しません。
制度は枠を作りますが、その中に「文化」がなければ、
形だけの取り組みになってしまうからです。


制度は始まりにすぎない

制度ができると、現場は「やらなければならない」という動き方をします。
それは当然のことですが、本来、学びは義務ではなく内側から湧き出る営みです。

探究学習も、先生が“制度としてやらされる”のではなく、
「子どもが成長する瞬間を見たい」という教師の思いから動き出すとき、
初めて本当の力を発揮します。

そのためには、制度に魂を吹き込む「文化」を育てなければなりません。


文化は人から生まれる

文化とは、人が積み重ねてきた知と経験の結晶です。
学校の中でいえば、それは先生一人ひとりの授業記録・工夫・哲学の集合体です。

第3章で触れたように、個人の努力を仕組み化する。
第4章で述べたように、その仕組みを学校や社会に広げる。
第5章で語ったように、そこで共有された実践を通して教師の哲学が育つ。

この循環が機能し始めるとき、探究は“制度”から“文化”へと姿を変えます。
つまり、先生の中に息づく哲学が、学校という場の文化になるのです。


「文化としての探究」が子どもを変える

文化になった探究は、教師にとって自然な行為になります。
「考えさせる」「話し合わせる」といった手法を超えて、
“子どもを信じて見守る”という姿勢が根づいていきます。

そして、子どもたちもまた「考えるとはこういうことだ」と体で覚えていく。
探究が文化として学校に息づくと、
子どもたちの学び方も変わります。

  • 答えを探すのではなく、問いを立てるようになる。
  • 失敗を恐れずに、考えを試すようになる。
  • 人の意見を聞いて、自分の中で再構成するようになる。

それは、まさに「生きる力」としての探究です。


文化を広げるのは、一人の先生の姿勢

制度を動かすのは行政ですが、文化を育てるのは現場の一人の先生の姿勢です。
たとえば、授業で子どもの意見を丁寧に拾い上げる。
失敗した生徒に「その発想は面白い」と声をかける。
小さな行為の積み重ねが、やがて学校全体の空気を変えます。

教育は結局、人が人を育てる営みです。
その温度のある関わりが、どんな制度よりも強い力を持ちます。

文化とは、「理念が日常に溶け込んだ状態」。
探究がそんな文化として根づけば、
子どもたちは、教えられなくても“考え続ける人”になっていくでしょう。


探究を支える三つの柱

ここまでの流れをまとめると、探究学習を文化として機能させるには、
次の三つの柱が欠かせません。

  1. 基礎の上に立つ探究(教えることを怠らない)
  2. 仕組みとしての共有(経験をデータと文化に変える)
  3. 哲学としての教育(理念を日常に浸透させる)

この三つが揃って初めて、探究は制度の枠を越え、
「生徒の成長を支える文化」として根づきます。


探究を育てるということ

探究学習がうまくいかないとき、
私たちは「時間が足りない」「先生の力量が違う」といった要因に目を向けがちです。
けれど、本当の問題はそこではありません。

それは、経験を共有し、哲学を受け継ぐ“文化”がまだ育ちきっていないということ。

文化は、制度よりも時間がかかります。
けれど、一度根づけば揺るぎません。

探究を「新しい授業スタイル」としてではなく、
教師と子どもがともに育ち合う学びの文化として育てていく。
それこそが、これからの日本の教育が進むべき確かな方向だと思います。

FAQ

探究学習とは何ですか?

探究学習とは、知識を活用して自ら問いを立て、解決方法を考える学びのことです。
暗記ではなく「考える力」を育てることを目的としています。
ただし、基礎知識の理解がないまま実施すると、話し合いだけで終わってしまう危険があります。

探究学習は学力低下の原因なのでしょうか?

探究学習そのものが原因ではありません。
問題は、知識の土台を作らずに“考えさせる”授業をしてしまうことです。
探究学習は本来、基礎学力の上に成り立つ応用の学びです。

学力低下の原因は何ですか?

近年の学力低下は、探究学習よりも基礎反復の減少や授業設計のばらつきが主な要因と考えられます。
先生個人の努力はあっても、教材や発問が共有されず、学校全体での一貫性が保てていないことが背景にあります。

探究学習をうまく機能させるにはどうすればよいですか?

まず、知識を丁寧に教えたうえで探究活動を行うことです。
次に、先生同士で授業を共有し、チームで設計・改善していく仕組みを整えることが大切です。
探究は、個人の力量よりも仕組みと文化で支える学びです。

今後の探究教育に必要なことは何ですか?

探究を制度として導入するだけではなく、文化として根づかせることです。
授業の記録や発問を学校・地域・全国で共有し、教師同士が哲学を語り合う。
そうした教育文化の蓄積こそが、子どもたちの「生きる力」を育てます。

お子さんの状況(どこで止まっているか/どんなサポートが合っているか)は一人ひとり違います。
「まずは現状を聞いてみたい」という方は、進学塾サンライズまでお気軽にご相談ください。

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